風見鶏

何故(なにゆえ)人は
日々積み上げてきたものに
満足して歩みを止めないのだろう
それはまるで歩みを止めると
日々積み上げてきたものが
崩れてしまうのを恐れているかのように
冷めてしまった珈琲を温めても
元の香りが戻らないように
過去を振り返るばかりでは
卵は孵らない
僕の約束はいつも未定
風向きが変われば気持ちも変わる
そのくせ頑なに守ろうとするものもあるから
周りの人々を惑わせる
ああ、僕は錆びついた風見鶏
赤く古びた屋根から落ちそうに為りながら
人の心の風を受け続ける
渡り鳥に憧れながら
湖を滑る水鳥に憧れながら
身体を軋ませ遠くを見つめる
振り返ることを許されない風見鶏
2019/1/3
☆独言
実際に僕と顔を合わせて話しをしている人が、
僕の書いた詩を読むとそのギャップに驚かれることが多々ある。
それは《外面と内面》のギャップなのだけどね。
冗談を言って笑わせる外面の裏側に、
そういう自分を作ってる気弱さがある。
強気な言葉を吐いた後に、
夜に一人反省会をしてる。
以前、僕の詩を読んだ人たちは
「夜行電車の中から見る外の風景」とか
「捨てられた子犬が泣いてるみたい」など
そう評していた。
確かに40年も書いてきたのだから
作風や内容にも変遷がある。
自分では進歩できたのか、それとも変わらないのかよくわからないけれど、
懇意にしてくださる人がいるということは、何かを伝えられているのだろうなと思う。
迷いが無ければ書かないと思う。
悩みが無かったら書かないと思う。
喜びが無ければ書かないだろうし、
ときめくことがあるからこそ書く。
忘れたくない想いがあればこそ・・・。
例え《壊れかけの風見鶏》になろうとも。
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